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  • 50代で「みなとみらいに住む」という選択|年収770万円でも実現した方法

    50代で「みなとみらいに住む」という選択|年収770万円でも実現した方法

    私は50代で、みなとみらいに住むという選択をした。

    年収770万円。

    家賃は20万円台。

    一般的には、無謀な選択かもしれない。

    住宅売却、生活環境の変化、そしてコロナ。
    人生の価値観が、大きく変わった出来事が重なった。

    この記事では、
    憧れだった街「みなとみらい」に住むことを決めた理由と、
    実際に暮らして感じていることを書いてみたい。

    みなとみらいの夕焼け観覧車

    みなとみらいは、ずっと憧れの街だった

    みなとみらいは、ずっと憧れの街だった。

    みなとみらいのビル群と水面反射の風景

    高校時代。
    まだ桜木町しかなかった頃。

    ガード下の定食屋で、
    のりたま定食350円を食べていた。

    あの街が、こんな姿になるなんて。
    誰が想像しただろう。

    大学時代、何度もデートで訪れた。
    来るたびに、憧れは少しずつ強くなった。

    けれど新築価格は6000万円前後。

    私には届かない世界だった。

    気にしないふりをしていた。

    コロナが人生の価値観を変えた

    コロナに罹り、
    「人生がここで終わるかもしれない」と思った。

    そのとき、押し込めていた思いが浮かんだ。

    みなとみらいに住みたい。

    住宅売却と生活の大きな変化

    当時の年収は770万円。
    家賃は20万円台。

    一般論で言えば、身の丈には合っていない。

    正直、住宅売却がなければ
    この選択はできなかったかもしれない。

    80平米の分譲マンションを手放し、
    50平米の賃貸へ。

    車も売却した。
    通勤は遠くなった。

    それでも、私は選んだ。

    感情だけではない。
    準備もした。
    計算もした。

    だから、踏み出した。

    「想いの強い人が住む街」

    不動産会社の担当者に言われたことがある。

    「人気エリアなので、賃貸でも取り合いになります。
    でも最終的に決まるのは、想いの強い方が多い気がします。」

    その言葉を聞いたとき、
    少しだけ救われた気がした。

    私は、確かにここに住みたいと思っていた。

    みなとみらいで暮らす日常

    みなとみらいの桜と観覧車が見える春の景色

    朝の臨港パーク。
    山下公園までの散歩。

    桜木町から夜景を見ながら帰る帰路。

    みなとみらいの夜景とライトアップされた観覧車

    休日は紅葉坂の県立図書館へ。

    ぴおシティや野毛で飲み歩く。
    横浜駅までも徒歩圏。

    そして何より、
    免許証の住所が「みなとみらい」。

    それだけで、心が満たされる。

    みなとみらいの桜並木と歩道の風景

    50代で「みなとみらいに住む」という選択

    正直、私の年収では
    一般的には住むべきではない場所かもしれない。

    でも今の私は、
    切り詰めてでも住む価値があると感じている。

    コロナがなければ、
    私はこの景色を知らずに終わっていたかもしれない。

    この街は、誰にでも優しいわけじゃない。

    でも、強く願った人間には、ちゃんと応えてくれる。

    だから私は、ここで生きている。


    人生は、まだ終わっていない。

    50代。

    まだ終わらない。


    ▼人生再設計シリーズ

    コロナで人生が止まった日
    マンション売却の決断
    みなとみらいに住むという選択←今ここ
    外車に乗る夢と手放す勇気
    ・(次回)タグホイヤーを子供に渡す、その理由

  • 50代でマンション売却を決断|住宅購入から売却までのリアル体験|再設計の記録

    50代でマンション売却を決断|住宅購入から売却までのリアル体験|再設計の記録

    川崎市マンション リビング

    50代で住宅売却を決断した理由

    私は川崎市出身。
    生まれも育ちも川崎です。

    世間的にはあまり良いイメージを持たれないこともあります。

    ですが下町の雰囲気が残るこの街が私はとても好きです。

    大学を卒業した後、しばらくフラフラしていた私に小さな命が授かりました。
    2001年。当時は世紀末が過ぎ、少しだけ子どもの出生率が上がった時代だったと記憶しています。私は25歳でした。

    これも運命だと思い、結婚し、今の会社にお世話になることになりました。

    マンション購入までの経緯

    最初は実家の近くで、私より年齢のいった賃貸マンションの2Kに住み始めました。家賃も交渉して少し下げてもらい、そこで新しい生活をスタートしました。

    やがて二人目の子どもができ、いよいよこの家では暮らせないという話になりました。
    当時30歳。収入も決して高くはありませんでしたが、双方の親の援助もあり、2007年に川崎区内で新築マンションを購入することになりました。

    今振り返ると、収入が多くないのにマンションを購入したことが、離婚の一因になった部分もあると思います。

    私は2001年に結婚し、2001年に就職し、2001年に子どもが生まれました。
    正直、今思い返しても当時は人生をゆっくり考える余裕がありませんでした。

    責任が生まれ、仕事では稼がなければならない。
    家に帰れば子どもは泣いている。
    妻は九州から出てきたばかりで、頼れる人も少ない。

    そんな状況でマンションまで購入してしまい、心のバランスが取れるはずがありませんでした。

    そして2012年、マンションを購入して5年後に離婚しました。
    息子が小学校1年生になるタイミングで、妻は子どもたちを連れて福岡へ戻りました。

    当時、息子と娘を一人ずつ引き取るという話も出ました。
    しかし、小さな兄弟を別々に暮らさせるのはどうなのかという話になり、妻が二人とも引き取ることになりました。

    それからは、夏休みのたびに子どもたちだけでこちらに来てくれるようになりました。
    ディズニーランドやキッザニアなど、いろいろな場所へ連れて行きました。

    そんな子どもたちが、5年しか住んでいなかった家に戻ってくるたびに

    「この家、落ち着く〜」

    と言うのです。

    その言葉を聞くたびに、一人では広すぎる80㎡弱のマンションを手放すことができませんでした。

    やがて娘は福岡で就職し、今年で25歳。
    息子も早生まれなので、数えで今年20歳になります。

    正直、いつかこちらに戻ってくるかもしれない。
    そんな思いもあり、なかなか家を手放す決断ができませんでした。

    しかし、住宅売却を考える大きなきっかけになったのは、2021年に猛威を振るったコロナでした。

    コロナ禍の中で、私自身も感染しました。
    その経験をきっかけに、人生について深く考えるようになりました。

    最初の売却チャレンジ(2023年)

    最初に売却を考えたのは2023年。


    コロナが落ち着き始めた頃でした。

    マンション キッチン

    キャンプブームやリモートワークの普及により、郊外の広めの住宅に注目が集まり、地価が上がっているのではないかと思ったことも理由の一つです。

    購入価格は3030万円。


    不動産会社にマンション売却の査定を依頼すると、4350万円という査定を出す会社もありました。

    川崎市マンション リビング

    その中から、以前から定期的に連絡をくれていたS不動産のNさんにお願いすることにしました。
    父の実家が鹿児島で、その方も鹿児島出身だったため、不思議な縁を感じたのも理由でした。

    ただ、この時私はまだ知りませんでした。

    不動産の査定額には、責任がないということを。

    査定額が高いからといって、その価格で売れる保証はありません。
    価格を決めるのも、売却するかどうかを決断するのも、すべて自分なのです。

    正直「言ったもの勝ちじゃないか」と思いました。

    さらに、縁を感じていた営業の方は4月に異動。
    担当者も変わり、不信感がMAXになったのを覚えています。

    売却価格4180万円の現実

    最終的にS不動産の査定は4180万円。
    この価格で販売することにしました。

    写真撮影や設備確認など、売却前にはやることがたくさんあります。
    さらにSUUMOなどに掲載されると、週末はほぼ自宅にいながら内覧対応。

    10組以上の方が見に来ました。
    2023年は中国の方が多かった印象です。

    しかし3か月の専任契約で出た最高価格は

    3700万円

    リフォーム業者と中国人の方でした。

    4180万円と言われていたのに3700万円。
    その差は480万円。

    不動産の査定価格と実査の売却価格には、大きな差が出ることもあります。

    正直かなり迷いましたが、売却を一旦保留することにしました。

    再チャレンジと価格戦略

    2024年2月頃、今度はこのマンションを購入した時にお世話になったN社に依頼しました。

    しかし内覧は2件だけ。
    写真も営業マンが簡単に撮る程度。

    正直「こんな対応で売れるのか」と思いました。

    そこで2024年秋、再び最初の不動産会社に相談し、もう一度販売することにしました。

    そして価格は

    3980万円

    この価格には意味があります。

    SUUMOなどの検索では

    • 3000万円台
    • 4000万円台

    という区分で検索されます。

    つまり

    「川崎 × 3000万円台」

    という検索にヒットしやすくなるのです。

    マンション ベランダ

    そして2024年12月

    私と同年代くらいのご夫婦が内覧に来ました。
    旦那さんは自衛官の方でした。

    特に奥さんがこの家をとても気に入ってくれて

    「17年住んでいてこんなに綺麗なのはすごい」

    と言ってくれました。

    しかも

    値引きなしで購入

    してくれました。

    組み立て式の棚やベランダの家具まで、そのまま引き取ってくれました。

    50代のマンション売却は人生の大きな決断でした。

    住宅売却は本当に

    縁とタイミング

    だと実感しました。

    引っ越しと引き渡し

    2024年12月契約
    2025年2月17日引っ越し
    2月26日売却

    ただ、引っ越し後も長年の汚れが気になり、1週間ほど元の家に寝泊まりして片付けをしました。

    売却から引き渡しまでには、余裕を持ったスケジュールをおすすめします。

    そしてこうして、ようやく私は身軽になることができました。


    人生は、まだ終わっていない。
    50代。まだ終わらない。

    ▼人生再設計シリーズ

    コロナで人生が止まった日
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  • 退院後に感じた「あのお粥の味」|50代で人生が変わった瞬間(後編)

    退院後に感じた「あのお粥の味」|50代で人生が変わった瞬間(後編)

    状態が安定し、
    私は私立病院へ戻された。

    そこで初めて、
    病院で食事を摂ることができた。

    コロナは、味覚や嗅覚に
    障害が残ることがあると言われていた。

    幸い、私にはそれがなかった。

    運ばれてきたのは、

    お粥。
    少しの魚。
    煮物。

    今、写真で見れば
    決して豪華な食事ではない。

    だが、あの時。

    それはとてつもなく美味しかった。

    一口飲み込んだ瞬間、
    ふと頭に浮かんだ。

    「ああ、俺は生きている。」

    涙は出なかった。

    ただ、
    静かな実感だった。

    回復しても、元には戻らない

    退院しても、終わりではなかった。

    肺は回復しても、
    体力は戻らない。

    後遺症外来に
    一年通った。

    それでも、
    思考は確実に変わった。

    生きてて良かった。

    そして、思った。

    出来ることは、出来るうちにやろう。

    人生の再設計は、あのお粥から始まった

    住宅を売却したことも。

    車を手放したことも。

    キャンプを始めたことも。

    資産運用を
    真剣に考え始めたことも。

    全部、

    あのお粥の一口から始まっている。

    このブログについて

    このブログは、
    人生の再設計の記録だ。

    完璧ではない。

    迷いながら、
    失敗しながら、

    それでも前に進む。

    生きているうちに、
    出来ることをやる。

    それが、
    あの日からの私の指針だ。


    人生は、まだ終わっていない。

    50代。

    まだ終わらない。

    ▼人生再設計シリーズ

    コロナで人生が止まった日←今ここ
    マンション売却の決断
    みなとみらいに住むという選択
    外車に乗る夢と手放す勇気
    ・(次回)タグホイヤーを子供に渡す、その理由

  • コロナ重症で肺が真っ白になった日|50代で人生を見直したきっかけ(前編)

    コロナ重症で肺が真っ白になった日|50代で人生を見直したきっかけ(前編)

    ー2021年、デルタ株の夏ー

    はじまりは、ただの発熱だった

    2021年の夏。

    デルタ株が猛威を振るっていた頃。

    「まさか自分が。」そう思っていた。

    数日後、医師から告げられた。

    「肺が真っ白です。」

    頭の中が、一瞬止まった。

    戦場の様だった病室

    2021年夏。重症病棟の一室。

    大学病院。

    そこは、静かな入院生活の場所ではなかった。

    戦場だった。

    防護服が擦れる音。

    絶え間ない足音。

    なり続くモニター。

    看護師と医師がごった返し、

    空気は常に張り詰めていた。

    腕には何本もの管。

    肩から入れられたカテーテル。

    体はもう、自分のものではないようだった。

    それでも言われた。

    「うつ伏せになってください。このままだと、息が止まるかもしれません。」

    私は、うつ伏せに寝かされた。

    酸素マスク越しに聞こえるのは自分の荒い呼吸音。

    でも、本当に怖かったのはその数字ではなかった。

    静まり返った夜

    夜だった。

    さっきまであわただしかった隣のベッド。

    その気配が、夜ふと静かになった気がした。

    詳しいことはわからない。

    でも、ここはそういう場所だった。

    夜の病院は静かすぎた。

    その静けさが、何よりも不安だった。

    「戻れなかったら?」と初めて思った

    「このまま戻れなかったら?」

    子どもはどうなる。

    仕事はどうなる。

    これまで積み上げてきたものは?

    呼吸よりも怖かったのは、未来が途切れる事だった。

    あの日、私は初めて”死”を具体的に考えた。

    そして同時に、思った。

    まだ、終わりたくない。

    人生はまだ終わっていない。

    50代。

    まだ、終わらない。

    ーーーーーーーーーー

    ▶【後編】あのお粥の味はこちら

    生き残った。
    だから、できるうちにやる。

    ICUを出て、私立病院へ戻った。

    そこで初めて口にしたのは、
    一杯のお粥だった。

    ▶【後編】あのお粥の味
    (リンク)

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    ▼人生再設計シリーズ

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  • コロナで肺が真っ白になった50代会社員が人生をやり直すと決めた日|再設計の記録

    コロナで肺が真っ白になった50代会社員が人生をやり直すと決めた日|再設計の記録

    コロナで重症化し、肺が真っ白になった。

    医師からそう告げられたとき、人生が一度止まったと感じた。

    50代会社員の私は、あの日を境に人生を再設計すると決めた。

    これは、その原点の記録だ。

    みなとみらいで築いた安定した生活

    50歳。年収800万円弱。

    専門性の高いニッチ業界の零細企業で25年働いている。

    みなとみらいに住み、数千万規模の資産も築いた。

    臨港パークから赤レンガ、山下公園へと続く散歩コース。

    窓の外には子どもたちの笑い声。

    正直に言って、今の暮らしは悪くなかった。

    2021年、突然息ができなくなった

    転機はコロナだった。2021年の夏。突然息が苦しくなった。

    最初は風邪だと思った。だが熱は下がらず、酸素濃度は危険な数値を示した。

    救急搬送。

    病院は逼迫していた。

    野戦病院のような光景。肩からカテーテルを入れられ何本もの管に繋がれた。

    「このままで本当にいいのか?」

    そう考えざるを得なかった。

    回復した。でも、元の自分には戻れなかった

    だが、何かが変わてしまった。

    仕事に不満があったわけではない。長年、企画や商品開発に携わり、自分なりの誇りもある。

    だが会社は小さく、経営層は高齢化している。自分ではどうにもできない流れもある。

    私は感情の振れ幅が大きい。多動で、思い立ったらすぐ動きたくなる。

    だが気づいた。

    本当は辞めたいのではない。「辞められる状態」になりたいのだ。

    人生を再設計するという決断

    あの病室で感じたことは一つ。人生はいつ終わるかわからない。

    ならばやりたいことをやる。

    やらなかった後悔より、やった後悔の方がいい。

    副業、資産形成、発信。

    すべては「選べる人生」を手に入れるため。将来の自分に言わせたい。

    「あの時、決断してよかった」と。

    人生はまだ終わっていない。50代、まだ終わらない。

    人生はまだ終わっていない。50代、まだ終わらない。

    もし、あの時の決断がなければ
    今の自分はなかったと思う。

    👉 そのきっかけはここに書いている
    コロナ重症で肺が真っ白になった日|50代で人生を見直したきっかけ(前編)

    ーーーーー

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